ピンポンできない人は単に幸せだが、囚人といったい何が違うのか?
私は廃墟不動産投資を勝手に考案した創始者なのですが、
始めたい人が結構多いので、長い間コンサルやちょっとした教材という形でノウハウを教えてきています。
空き家を探してオーナーと交渉して入居したい人へ貸し出すわけですが、
最初の空き家探しでは、登記簿ではなく自らの足を使って住宅地を歩きます。
その際、空き家の隣の人にピンポンしてオーナーが誰なのか尋ねます。
私や成果を出した人からすると全く信じられないことに、
そのときどうしてもピンポンできない人達が一定数存在します。
ピンポンとは物理的なスイッチやボタンであり、
それを押せないというのはおかしなことで、一種のメンタルの病気であると私は思っていました。
野生のお猿さんでも押せるはずだと私は教えてきましたが、
絶対に無理だと言ってできない人が多いです。
ちなみに、私はピンポンを押して、
怒られたり嫌な顔をされたり強い口調で追い返されたりしたことは一度もありません。
たいていの人は暇を持て余した高齢者で、
こちらが急いでいてもお構いなしに喜んでしゃべってくれます。
なぜピンポンできないのか尋ねてみると、
「もしも変な人だと思われたらどうしよう」とか、
断られたり怒られたりするのが怖いようです。
仮にそうだとしても、何も痛くもなく苦しくもなく、
人生に何の影響も与えないことをいくら説明しても、
恐怖のあまり指が動かないようです。
ここで、話のステージを少し変えてみて、想像してください。
もし自由と平和を求めてあなたがゲリラとして独裁国家の政府軍と戦っているとします。
おびただしい数の地雷の中、命をかけて前進する当日の朝に、
仲間の一人が、
「今日は小雨が降りそうだ お気に入りの服が濡れたらどうしよう 怖くて怖くて仕方がない もし雨に濡れたら、部屋干しになって服がちょっと湿っぽくなって、カビ臭くなるからそんなの絶対無理、無理に嫌だ、外になんか出られないよ」
って言っていたらどう思うでしょうか?
「何と苦難を知らない幸せな奴なんだ」と驚くはずです。
ピンポンできないのはそれと同じです。
ピンポンできない人は、誰かから嫌な顔をされたことも何かを断られたことも、注意されたことも全くなく、
ましてや殴られたり絡まれたりするなど危険な事態に遭遇したことが人生で一度もない、
非常に恵まれた人なのだと推察します。
過去に何もつらい経験をしていないので、
「ピンポンしたときに、もし邪険に扱われたらどうしよう」と感じて恐れおののくのです。
生きてきて、つらくて苦しくて悲しい経験が皆無だというのは、
大変幸せなことのように見受けられます。
しかし、本質的に幸せというのは、
困難を解決して乗り越えたり、
苦しい状態から理想を描きそれを実現したりすることで得られるものです。
つまり、苦しければ苦しいほど大きな幸せを得られます。
何も嫌なことが人生で起きていないということは幸せではありますが、
それは単に不幸を経験していないというだけで、
喜びも感動も歓喜もない、のっぺらぼうな人生だと言えます。
たくさん挑戦し、何度も挫折し、それを乗り越えて大きな喜びを得る、
それが不幸と共に幸せを勝ち取る、波乱万丈ながら充実した人生です。
ピンポンできない人はその真逆です。
人から殴られたこともない、嫌なことを言われたこともない、
誰かから注意されたこともないのは、幸せかもしれませんが、
そんな人生をただ呆然と過ごすことは、
喜びや感動という心の機能を与えてくれた生命そのものへの冒涜だと私は思っています。
ピンポンできない人は、この記事を見て自らの幸せに感謝するとともに、
小さなことからどんどんいろいろと挑戦して挫折し、
それを乗り越える体験を経て、ぜひ人生の喜びを得てください。
先週の名言
大して傷付いたこともないくせに、俺を妬んでんじゃねーぞ、つけあがんな
2022 晩秋 廃墟不動産投資家(written by 廃墟不動産投資家)