この国でもし貧しいならば、パーフェクトなまでに自己責任である
ときどき、お金に困った人のドキュメンタリーや取材の記事などを見聞きします。
そうした話では、たいてい偽善的なまとめにつながっていき、
「貧乏は自己責任ではない、社会が悪い、行政の責任だ、偉い人はもっと目を向けるべき」
のような論調で終わります。
結論として、それは正しくなさ過ぎて驚きます。
もちろん、金持ちが正しく、貧乏が間違っているわけでもありません。
ただ、この国において格差の是正は不要だということです。
貧しさとはその人の選択の結果です。
仮に、「金持ちは温泉に入ってうまいもん食って、いい気なもんだ」と言っている貧しい人がいたとして、
もしその人を同じ場所へ連れて行ってあげても、
温泉には入らず、絶景を見ることもなく、
食事の時間にも現れず、旅館の部屋でスマホでゲームしてカップラーメンをすすっていると予想されます。
分かりやすく例えると、「金=美少年キャラのカード」だとしたら、
女子中生やオタクなどはそのカードをたくさん集めるでしょうが、
世の中のおじさんは全く興味なく、無料でも受け取らないはずです。
ある女子中生は60枚、あるオタクは89枚のカードを持っているのに対し、あるおじさんは1枚だとして、
「格差をなくさなければならない」という理由から、
女子中生から10枚、オタクから39枚を没収し、おじさんに49枚を支給して、
カードの保有枚数をそれぞれ50枚にそろえることがいかに無意味であるか、
誰でもすぐ理解できるはずです。
お金もだいたいその理屈と同じです。
高級懐石をごちそうしてあげても美味しいものは食べないような人や、
絶景の温泉を目の前にしても別館に行って着替えすることが億劫な人を、
そうしたところに連れて行くのは無駄なわけです。
簡単に言うと、相対的な貧困を救うのはおかしいのです。
今晩のパンすら食べられないような絶対的な貧困のみを救うべきです。
そして、この国において絶対的な貧困は発生し得ません。
まず生活保護が受けられますし、そこまで困らなくても、
あらゆる給付金・補助金・助成金が充実していて、
例えば、生活が苦しい人なら社会福祉協議会で200,000円もらえますし、
自営業者でも毎月200,000円借りられます。
しかし、この国では謎なことに、「お金に困った」と嘆いている人がたくさん潜んでいます。
そうした人に、「役所で3枚ほど書類を記入すれば200,000円もらえますよ」と教えても、
面倒臭がってほとんど誰も申請しません。
しかし、おしゃれなイメージの消費者金融のCMなどにはすぐ反応してお金を借ります。
そして、すぐ返済に行き詰まり、友人や知人に借りたり、場合によっては音信不通で連絡を無視したりします。
ものすごく真面目な人やおとなしい人でも、割と平気で貸してくれた友人を連絡先から消去します。
そして、いろんな人に督促されたり愛想を尽かされたりして、
「私が貧乏になったのは自己責任じゃない、社会が悪い、行政の責任だ、偉い人はもっと目を向けるべき」
などと働きもせずブランド品を身にまといながらスマホ片手に主張します。
この国で貧しくなっている場合、社会の責任でしょうか?
この国でもし貧しいならば、単に自己責任でしょうか?
役所に「自分はダメ人間で貧乏なんです 友人よりパチンコやブランド品を優先してしまったクズなんです」
と正直に打ち明けて、申請書に記入して給付金を受け取って暮らしを立て直すのではなく、
消費者金融のきれいなATMで「これでまた沖縄旅行だ~♪今度は何買おっかな~(^-^)」
とサクサクお金を下ろすような人が生活に困っているのは、
決して社会や総理大臣の責任ではなく、単純に本人の責任なのです。
どんなに無能でもコツコツ普通に働き、変に浪費せず、一時的にお金に困っても
適切に役所から給付金などを受け取っていれば、
この国において決して貧しい状態にはなり得ません。
つまり、この国において金に困っている人は全て、怠慢な自己責任であると断言できます。(written by 廃墟不動産投資家)